ニュース&トピックス

お知らせ周辺の出来事2020.05.08勝弦峠の戦い

本社前の県道をクルマで2~3分登って行くと「勝弦峠(かっつるとうげ)」(標高1,000m)を超えます。峠の頂上には塩嶺王城パークラインへの分岐と道路標識があるだけですが、少し下った「鳥居平やまびこ公園」の入口脇に下の写真の「案内板」があります。

塩尻峠の合戦跡地
天文年間、信濃侵略をめざす武田勢と信濃の武将とは幾度となく合戦をくり返したが、特に天文十七年(1548年)七月十九日の武田信玄と小笠原長時(本拠地 松本)との塩尻峠での合戦は熾烈をきわめ、これに勝利した信玄は信濃制覇の基盤を確立したと伝えられている。
この合戦は「塩尻峠の合戦」として、有名であるが主戦場の場所は特定されずこの付近一帯とおもわれる。

(岡谷市設置の案内板より)

武田信玄と言えば、上杉謙信と争った「川中島の戦い」が有名ですが、信濃制覇の基盤を確立した、つまり甲斐の外へ勢力を伸ばし戦国大名としての地位を確立したのは「塩尻峠(勝弦峠)の戦い」での勝利がきっかけということです。すごくないですか?

武田信玄(晴信)は甲斐国(山梨)の守護、敗れた「小笠原長時(ながとき)」は信濃国の守護でした。ともに平安末期に土着した源氏の末裔で、格式では小笠原も負けていません。守護小笠原一族は松本を本拠地にしていましたが、この敗戦をきっかけに徐々に北へ追いやられ、最後には越後(新潟)まで逃げて上杉謙信(長尾景虎)を頼ります。上杉謙信は、小笠原一族や同じく東信から逃げてきた村上氏の領地を武田信玄から取り返してやる・・という名目で信濃に侵攻して来ます。そこで勃発したのが「川中島の戦い」です。

小笠原長時には、まだ幼い子どもがいました。後の「小笠原貞慶(さだよし)」です。川中島の戦いは延々と膠着状態が続き、12年経っても明確な勝敗がつきませんでした。小笠原親子は(たぶん)途中で失望して、今度は京都へ行き畿内で勢力を拡大していた(小笠原と同族の)三好長慶を頼ることにします(貞慶の「慶」は三好長慶の「慶」をもらったようです)。京都で自身の正当性を訴え、信濃の旧領を回復するための活動を行いましたが願い叶わず、長時は家督を息子の貞慶に譲り、失意のまま会津若松へ行って隠居(いわゆる「小笠原流」の武家作法の有識者として招かれた)します。

家督と旧領回復の意志を継いだ小笠原貞慶はさらに強い武将を頼り、最終的にはあの織田信長に仕え、「信濃を攻略できたら旧領を返してやる」という約束を信じて、織田家と諸侯領主との仲介役として、目立たないところで(たぶん)一生懸命働きます。そして天正10年(1582年)、ついに織田が武田を滅ぼしますが、「お前は戦で何もやってないだろ?」と言われ(たか分かりませんが)約束したはずの旧領は戻してもらえず、武田を裏切って勝利のきっかけを作った木曽義昌に褒美として与えられてしまいます。さぞ無念だったことでしょう。貞慶は織田の元を去ります。

しかし、そのわずか3ヵ月後・・武田を倒した慢心で油断していた(かどうか分かりませんが)織田信長は本能寺で明智光秀に打たれます。信濃の小笠原旧領では、どさくさに紛れて越後の上杉が再び「旧領を取り返してやる」という名目で介入してきて、織田の後ろ盾が無くなった木曽義昌を追い出し、庇護していた(京都へついていかなかった)「小笠原洞雪斎」(長時の弟)を傀儡として擁立し支配するようになります。

たぶん・・小笠原旧領の人々は、もう異国の大名に振り回されるは嫌になったのではないでしょうか。旧領の人々が望んだのは元の小笠原氏に戻って来てもらうことでした。小笠原の旧臣たちは、流れ流れて三河の徳川家康の元にいた小笠原貞慶を見つけて連絡を取り、信濃に引き入れ総大将とします。塩尻峠(一説によれば阿礼神社)に陣を張り、続々と援軍が集まって挙兵し、一気に拠点の「深志城」を攻め落とし奪還することに成功します。

 「塩尻峠(勝弦峠)の戦い」で敗走し、武田に追われてから実に33年。小笠原はようやく昔の領地に戻るという念願を果たすことができたのです。

その時、小笠原貞慶が言ったといわれています。

「待つこと久しくして、本懐を遂ぐ!」と。


「待つ・・本懐・・」→「まつ・・本」→「松・・本」→「松本!!」
「今日から、この城を『松本城』と名付ける!」

・・と言ったかどうかはわかりませんが(諸説あり)、この時、小笠原貞慶が「深志城」を「松本城」と改名し、これが「松本」の地名の由来となったのは事実です。
 
どうですか。歴史好きの筆者が(若干妄想も入れて)長々と書いてきましたが、「塩尻峠(勝弦峠)の戦い」が無ければ、松本は「松本」ではなく、もしかすると「川中島の戦い」も「本能寺の変」も無かったかもしれない・・と思いませんか?「塩尻峠(勝弦峠)の戦い」が、歴史のターニングポイントだったと思いませんか?

そんな戦国時代の小笠原氏をテーマとした初めての企画展が、来月から長野県立歴史館で開催されます。
(当社もノベルティ等の制作でお手伝いさせていただいております!)

 開館25周年記念 秋季企画展「戦国 小笠原三代-長時・貞慶・秀政-」
 開催期間:令和元年9月7日(土)~10月14日(月・祝)
 【場 所】 長野県立歴史館 企画展示室
 【入館料】 本展のみ 300円(大学生150円)
       ※常設展との共通券500円(大学生250円)

ちなみに、もう1人の秀政(ひでまさ)というのは貞慶の子で、幼少期に石川数正(今の国宝松本城の天守閣を作った石川康長の父)に人質として預けられ、徳川-豊臣の間を行ったり来たりし、松平信康(徳川家康の嫡男で、織田信長に謀反の疑いをかけられ切腹)の娘を正室としていたり、大阪夏の陣で奮戦して戦死していたりして(実は戦死したのは徳川家康で、秀政が死んだことにして代役(影武者)となったという説もあったり・・)、この人もいろいろ面白いのです・・。

敗走したとはいえ、当社所在地の勝弦(かっつる)と縁のある戦国小笠原氏。
ご興味のある方は、是非ご来館されてみてはいかがでしょうか。